これまでに4,000を超える工場の現場を訪問してきた、中小企業のものづくりのスペシャリストによる連載コラムの第10回(前編)です。本連載では、日本の町工場のものづくりの現場探訪を分かりやすく解説します。
解説は、政策研究大学院大学 名誉教授 橋本 久義 氏です。
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(本コンテンツの著作権は、橋本 久義 様に帰属いたします。)
【第10回(前編)】母から娘へ、技術と理念を繋ぐ-小松ばね工業(株)
女性社長は日本中にかなりいるが、二代続けて女性社長というとかなり珍しい。
この珍しい例が東京大田区の小松ばね工業(株)だ。2014年に小松節子社長が会長に、小松万希子専務取締役が社長に各々昇任し、二代続けて女性社長が誕生した。

小松 節子 会長
<経歴>
昭和59(1984)年 6月
小松ばね工業株式会社 代表取締役社長 就任
平成26(2014)年 7月
小松ばね工業株式会社 会長 就任(現職)

小松 万希子 代表取締役 社長
<経歴>
平成15(2003)年1月
小松ばね工業株式会社 入社 取締役 総務担当
平成26(2014)年6月
小松ばね工業株式会社 代表取締役 社長
小松ばね工業はJR大森駅から車で20分ほどの、町工場と住宅がモザイクのように混在する大田区らしい風景の中にある。第一工場も兼ねた本社ビルの近くに第三工場、宮城県大河原町に大河原工場、秋田県大仙市に秋田太田町工場があるほか、インドネシアにも子会社「小松ばねインドネシア」を展開している。

小松節子会長は江戸っ子だ。べらんめえのタンカは切らないが、気っ風の良さ=決断力は男まさりだ。
養父の小松謙一氏は秋田県出身で、東京に出て、ぜんまい工場で職工として技術を身に付けたが、1941年、東京大田区にその技術を応用したばね製造工場を開き独立した。
同じ「ぜんまい」で事業を興すのは修行させてもらった親方に失礼という、律儀で、まじめな考えの叔父(節子会長の実母の兄)だったので、ぜんまいには手を出さず、主にカメラのシャッター用の精密バネをはじめ、小型精密バネに特化、各界の要望に応えて時計、電気製品、通信機器、OA機器、自動車部品などの分野に進出し業容を拡大してきた。
前社長(現会長)の小松節子氏はこの小松ばね工業(株)創業者小松謙一氏の姪にあたる。
節子氏は謙一氏の妹さんの嫁ぎ先=本多家の四人姉妹の次女だった。本多家は情操教育を重視し、子供のころから、お琴やクラッシックバレエを習ったが、特にバレエが好きで、高校生の頃には、夏休み、冬休みの子供会で、近所の子供たちに簡単な踊りを教えたりして、技術を磨いたという。「私は何事もやると決めたら納得するまで追求する傾向がありました。この鍛錬の経験は私の後の人生で大いに役立つことになりました」と、節子氏。
しかし、叔父である小松謙一夫婦が子供に恵まれなかったので、節子氏は中学生の頃から、小松家の養女になる事が決まっていた。20歳のときに母親が亡くなり、節子氏は深い悲しみの淵に落とされるが、「この時を逃せば、二度と実家を離れられないだろう」と思い、母を喪った悲しみと同時に、生まれ育った家とも別れる運命を受け入れて、小松家の養女となった。当時、小松家には十人前後の住み込みの従業員がいたので、食事など身のまわりの世話を小松家の母親(養母)とともに行なった。ただし、それ以外の会社の仕事は、ばねづくりはもちろん、事務を手伝うこともなかった。
その後もバレエを続けながら、短大の生活芸術科卒業後、25歳の時お見合いで結婚して、二人の子供を育てる平凡な専業主婦となった。
ただ、好きなバレエについては、実父は自宅の敷地にスタジオを作るほど子供の得意な事を活かす力の入れようだったので、そのスタジオで四人姉妹でピアノ教室、バレエ教室を開き、バレエの生徒を50人程教えていた。
養父の急逝で、会社が窮地に
ところが、1980年(昭和55年)に小松ばね工業(株)の創業者小松謙一(養父)が突然亡くなって、状況が一変した。
大混乱の中で、会社内で人事騒動がおき、会社を継ぐために入社していた配偶者も、一旦は社長に就任したが、会社を去ることになり、結果的に離婚することになった。更に三年後に養母が亡くなった際、同社の株式を養護施設に寄贈したことで、株式が分散所有されることになって、混乱が倍加した。
節子氏は株式の60%弱を相続していたが、当時はその株式所有の重要性も、良く分かっていなかったという。
小松ばね工業(株)の古参役員は、節子氏へ社長就任を要請してきた。節子氏はそれまで企業で働いたこともないし、社長が何をすべきなのかも分かっていなかったが、役員が、「社長室で座っていてくれればいいです。経営は私達役員に任せてもらえばちゃんとやりますから……」と言うので、養父が命がけで作り上げた工場を放り出す訳にも行かず、小松ばね工業(株)の名前だけの社長に就任した。この時、長年続けてきたバレエ教室を閉鎖せざるをえなかったのが、とても残念だったという。
創業者が亡くなったあとの会社は、すさんでいた。工場は整理も清掃もいい加減で、床のそこかしこに油がこびりついている。応接室のソファは従業員の昼寝の場所と化していた。来客があると、あわてて部屋を片づけてお茶を出そうとするが、その茶碗は縁が欠けていたり、茶渋がこびりついていたりした。とりあえず、社長室のまわりや、接客のスペースは清掃したが、工場は油まみれで、床には、たくさんのバネがこびりついていた。
職場の汚れ具合に象徴されるように、業績も悪化していたが、役員らの危機感は薄かった。
ところで、会社には沢山のダイレクトメールが来る。その中に経営に関するセミナーのようなものがあったので、向学心旺盛な節子氏はそれに出席することにした。やがてセミナーで聞く話の内容と自社の役員達のやっていることが一致していないことに気が付き始めた。役員達は、仕事もしないで、権力だけを振りかざしていた。そして、経営状態は坂を転げ落ちるように悪くなっていった。
このようなある日、DMの中の「社長業」をうたったセミナーが目にとまり、参加してみた。このセミナーは年に何度も開催されるのだが、メンバーの中には10年、15年と通い続けている人がいることがわかった。なぜ、同じセミナーに長く通い続けるのかと驚き、不思議に思っていたが、気がつくと節子氏も1年の間に何度も同じセミナーに通うことになった。何故かと言えば、参加するたびに、知識も人脈も広がっていったためだ。
特に知識について言えば、事業環境は日々変わるし、会社の状況も変わる。一方自分も成長していくので、同じ話を聞いても、最近の体験と照らし合わせて、新しい発見があるのだ。
「特に印象に残ったのは、講師の先生が『会社が潰れた時の責任は、社長ただ一人』と語調を強めておっしゃったときです。その言葉に私の心は動揺いたしました。私は全ての経営を役員まかせにしていたからです。これは大変なことになると目が覚めました。当時、会社は二年連続の赤字に陥っていました。全責任が私にかかってくるのなら、座っていればよいというわけにはいかない、『できません、わかりません、と言っている場合ではない』と気づきました。」と節子氏。
「経営計画書=魔法の書」を作る
そして、1986年に経営計画書づくりの合宿セミナーへ参加した。講師は講義の中で「守破離」という言葉を使った。その意味は、初めは型を守るところから身に付けていく。つまり、知識や経験がないのであれば、自己流で行うのではなく、基本を真似ることから始めなさいという教えだった。
合宿には先輩の経営者が何人かいた。そのうちの一人が、その会社の「経営計画書」を貸してくれた。A4判の紙で50ページのものであったが、節子氏はその経営計画書を丹念に書き写した。コピー機が普及していなかったこともあるが、一句一句を理解するためには最適な方法だった。書き写す作業の中で、自社の姿、社長がやるべき事が徐々に見えてきた。
合宿の経験をもとに、1987年に初めて、節子氏は小松ばね工業の第36期の経営計画書を作り上げた。それまでは謙一氏のカリスマ性をベースにした……、放漫経営ではないが、カンに頼った『カンピュータ経営』だった。そこで、バランスシートを分析し、理想の形を計画書に盛り込んだ。
そして、経営計画発表会を開催した。初めは社員の前に立つことすら恥ずかしいと思っていたが、バレエを教えていた経験から、号令をかける声は大きく、その声と決意は全社員の耳に届いた。
基本方針は、「お客様第一主義に徹する」だ。お客様の要求を誠心誠意満たして、信頼されることではじめてお客様からお金を頂ける。給与はお客様から頂いている等、様々な内容をわかりやすく説明し、経営責任は社長にあり、計画書の実施責任は全社員にあることを伝えた。
社員の一つ一つの作業に目標を与えた。会社の借入金を減らし、手形の発行は止めることにした。また「手形をもらっても割り引かない」という方針にした。この方針は、現万希子社長の代になっても、貫いている。これが、多少の不況には全く動じない小松ばね工業(株)の強さをつくってきたのである。
「この時、徹底し繰り返し鍛錬した結果は、どの場面でも活かせることが分かりました。バレエの技術は自分が納得するまで練習をしなければ、安心して舞台に立ち、ライトを浴びて踊る事はできません。子供たちに教える場合も自信がなければ教えられませんし、生徒も付いてきてくれません。経営も同じ事が分かりました。」と、節子氏。
節子氏が積極的に経営に参加する態度を見せることで、社員達は協力してくれるようになった。社長の覚悟が伝わったからか、多くの従業員が節子社長の掲げる旗のもとに集まり始めた。こうして社内の潮目が変わった。仕事をする振りをして、権限を振り回していた古い役員達は次々と辞任し三年後には一掃されていた。
生産を増強し、いち早く海外展開を図る
節子氏はこのように、徐々に社内を掌握し、業績を立て直してきた。
この時期は電子製品の伸びが急速で、特に、パソコンや携帯電話が普及し始めた90年代以降は、機器の小型化が進むにつれ、プリント基板や電子部品を検査する装置も小さくなり、それに必要とされるばねも極小化が求められた。あらゆる機器が小型化、超精密化し、フロッピーディスク等精密バネの利用が急伸したことも幸いした。こうして急拡大した需要に応え、さらに、東京近郊での人材確保の難しさを見越して、地方および海外へ進出した。




89年秋田県太田町工場新設、95年頃からはアジア各地を視察して回り、97年にインドネシアに子会社を設立した。今でこそ経済成長著しい国ながら、当時のGDPは今の20分の一ほど。「なぜインドネシアだったのか」と尋ねられることも多いそうだが、それは節子氏の勘だった。当時は競争相手となる同業者が少なかった上に資本にもあまり制限がなく、何より現地の人とのコミュニケーションが抵抗なくできそうだと感じたからだという。こうして、求められる製品の変化に素早く対応できる体制をつくり上げたのだった。
インドネシア工場は中々軌道に乗らず、うまくいかなかったが、節子会長の息子さんであり、万希子社長の弟の久晃氏が現地で責任者となってから、安定して事業拡大を図っている。
今では、得意先が海外に出るからといって、万希子社長には慌てて後追い工場進出をしようという気配はない。なぜなら、海外で日本国内と同じ品質のばねを製造することが至難の業であることを、インドネシアの子会社を通じて身にしみて感じているからである。生活文化や労働観の異なる海外では、日本の職人のようにみずからが腕を上げて、製品の品質に強いこだわりを持つ人材を育てるのは容易ではないのだ。
後編へ続く
プロフィール
小松 節子(こまつ せつこ)氏
小松ばね工業株式会社 会長
<略歴>
学歴、職歴
昭和35(1960)年 3月 私立跡見学園短期大学生活芸術科 卒業
昭和59(1984)年 6月 小松ばね工業株式会社 代表取締役社長 就任
平成26(2014)年 7月 小松ばね工業株式会社 会長 就任(現職)
国の審議会、分科会、委員会
平成19(2007)年~平成25(2013)年 経済産業省 中小企業政策審議会委員 中小企業経営支援分科会委員
平成21(2009)年~平成23(2011)年 文部科学省 中央教育審議会委員 生涯学習分科会 教育振興基本計画部会
その他団体役員(現職)
日本ばね工業会 東部支部総務委員
その他団体役員
平成28(2016)年~令和4(2022)年10月 東京商工会議所 第1号議員
受賞歴
平成28(2016)年12月 優秀経営者顕彰「女性経営者賞」日刊工業新聞社
平成29(2017)年4月 旭日単光章
令和2(2020)年11月 東京国税局長表彰
小松 万希子(こまつ まきこ)氏
小松ばね工業株式会社 代表取締役 社長
<略歴>
学歴、職歴
平成3(1991)年3月 学習院大学 経済学部経済学科 卒業
平成15(2003)年1月 小松ばね工業株式会社 入社 取締役 総務担当
平成26(2014)年6月25日 小松ばね工業株式会社 代表取締役 社長
委員等
令和3(2021)年2月5日~ 厚生労働省 労働政策審議会委員、労働政策審議会労働施策基本方針部会臨時委員
令和3(2021)年6月 大森法人会 副会長
令和3(2021)年11月1日 東京地方労働審議会委員
令和4(2022)年11月1日~令和7(2025)年10月31日 東京商工会議所 中小企業委員会委員
令和4(2022)年11月17日~令和7(2025)年10月31日 日本商工会議所 労働専門委員会委員
令和5(2023)年6月~令和7(2025)年10月31日 日本商工会議所 東京商工会議所 「これからの労働政策に関する懇談会」構成員
平成28(2016)年5月~ 一般社団法人「ものづくりなでしこ」監事
平成30(2018)年4月~ 一般社団法人国際都市おおた協会 評議員
これまでのコラム
第1回 日本の町工場は人材育成工場
第2回 継ぐ者、継がれる者
第3回 会社を成長に導く社長の共通項とは
第4回 伸びる会社の社長は他人の能力を正しく評価し、活用できる
第5回 たった一人の板金工場から、革新的なアイディアと技術力で急成長を遂げ、その後、ものづくりベンチャーの援助に汗を流し続ける町工場の社長=浜野慶一さん
第6回 発明王 竹内宏さん
第7回 水馬鹿になって安心な水つくりに取り組む 桑原克己さん
第8回 大森界隈の名物会社 金森茂さん
第9回 夢を描き、進化させる 田中聡一さん
筆者紹介 橋本 久義(はしもと ひさよし)
政策研究大学院大学 名誉教授