【連載】ものづくり教授の現場探訪(第8回)

 これまでに4,000を超える工場の現場を訪問してきた、中小企業のものづくりのスペシャリストによる連載コラムの第8回です。本連載では、日本の町工場のものづくりの現場探訪を分かりやすく解説します。
 解説は、政策研究大学院大学 名誉教授 橋本 久義 氏です。

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(本コンテンツの著作権は、橋本 久義 様に帰属いたします。)

第8回大森界隈の名物会社 金森茂さん

 毎月、第3土曜日の夜。ポスター1枚出ているわけではないが、人々が三三五五、東京都大田区大森にある金森製作所ビルの階段を上がってゆく。3階のドアを開けると、耳をつんざくようなエレキの大音響。赤いネオンにミラーボールが回っていて、音楽に合わせてみんなが踊る、踊る、踊る。客席は無理すれば80人ぐらい入れるのだが、いつも押すな、押すなの満員だ。曲はいわゆる60’s(シックスティーズ)のジャズが中心。エレキ全盛の頃のものだから、最近の”クラブ”の音楽やネットで聞く曲とはちょっと違う。演奏している会場は一応正式に登録されたNPOの事務所ということになっているが、普段はローテーブルにパソコンや電話が並ぶ、株式会社金森製作所の「会長室」だ(写真1)。

写真1 株式会社 金森製作所の「会長室」でのLive風景

 この部屋は1987年、金森製作所が現在地に移った時、3階が空いていたので、金森茂会長(当時社長)が社員同士が気兼ねなく、安く飲める場所にしようという意図で作った。だから、舞台・ステージ・床も社長以下、社員が自分達で整備した。ただし、ドラム・ベース・シンセサイザー・アンプ・スピーカー等は一流品で音響関係設備には数千万円をかけたという。こうした「社員クラブ」を作った最大の成果は、「変わった会社だなあ」と近隣の皆があきれたことでしょう、と金森さんは笑う。「大森界隈でこんな設備のある工場なんてありませんでしたから……」

 月一回開放してライブを行うようになったのは1999年から。演奏するミュージシャンは、プロのゲストミュージシャンの他、金森会長みずから大森駅などでストリートミュージシャンをスカウトしてくるのだという。「彼らにきちんとしたステージ(写真2参照)で演奏した経験をさせてあげたい」と金森さん。だから「リードギターはプレス工場のベテラン工員、セカンドギターは工具屋の若旦那、ドラムはメッキ工場の工場長、歌っているのは八百屋の娘」といった具合だ。実は筆者の娘もピアノの弾き語りをやらせてもらった。(お耳汚しで!すいません)

写真2 「会長室」Live会場ステージ

 「あまり上手じゃなかったバンドがステージを経るごとに、うまくなっていくとうれしくてね」と金森会長。2008年1月には、「寺内タケシとブルージーンズ」(むろん本物!)の面々が友情出演してくれた。金森会長の顔の広さだ。客席はもちろん超満員になった。

 「音楽は世界の共通語です。うちのライブに来る人は、皆いい顔しています。私も若い頃は苦労しましたが、今そこそこの生活が出来て、年齢や職業に関係なく皆が楽しめる場所が提供できるのは本当に幸せです」金森さんの青春時代の音楽は、なんと言ってもベンチャーズ。

 1995年に金森さんが中小企業の経営者を募って『ミドルコーポ&ブライトリー』(「明るい中小企業」の意味)を結成し、金森社長もエレキをかき鳴らす。(という噂だが、私は過去十数回、土下座してお願いしたが、現在まで一度も聞いたことがない)

 「高いギターを買えば、いい音が出るんじゃないかと思って、すごい高いギターを買ったけど、違うんだね。若いときから弾いてなきゃ出せない音がある。」コロナの時は残念ながら数年中止せざるを得なかったが、再開している。この会の常連で、参加して踊っているうちに、素人ながらダンスの達人として有名になった塗装会社の社長=中島さん=も健在で、参加すれば『塗装工祈りの舞』が楽しめる。

貧しくてグレる

金森茂 株式会社金森製作所 代表取締役会長

経歴
1942年北海道旭川市生まれ。中学卒業後に単身上京。20歳で運送会社を始めるもほどなく倒産。その後、町工場に勤めるなどして、1973年 金森製作所創立。1978年 株式会社金森製作所設立。1987年 株式会社関東宮城設立(子会社)。1990年 株式会社金森テック設立(子会社・北海道室蘭市)。

 東京都大田区にある金森製作所の会長金森茂さん。生まれは北海道旭川。ヒ工やアワ、時にはワラで飢えをしのぐような極貧のなかで育った。父親は博労のようなことをやっていたらしいが、ほとんど家には寄りつかなかった。貧乏で、給食費も払えなかった。その上に身体も小さかったので、学校で不良にイジメられた。悔しくて悔しくて「負けてたまるか!」とツッパッているうちに中学卒業の頃にはイッパシのワルになっていた。

 いろんなことをやったが、最後は無免許のくせに、近所に置いてあった自動車を夜間無断で借りて(当時はセキュリティーもいい加減で、バッテリーから針金でつないでセルモーターを回せば、エンジンはかかった)朝方こっそり返すという遊びをしていたのだが、数回目にスピードを出しすぎて、車が横転した。金森さん自身は擦り傷程度で済んだのだが、仲間の一人が、転倒した自動車から脱出するときに窓ガラスで背中を切り、大きなキズができた。最初は捕まるのが怖くて、三人で隠れていたのだが、けが人の背中の傷が化膿してきたので、仕方なく病院に連れて行った。その際「絶対俺達のことは しゃべるんじゃないぞ!! 男の約束だぞ!!」と固く言い含めたにもかかわらず、そいつが警察の尋問にいくじなく、すらすらと白状したので、金森さんも捕まり、ついでに他の色々な悪事もバレて少年鑑別所に入れられた。

 その後、無事退所したのはよかったが、売られた喧嘩が原因で相手にケガをさせてしまった。逮捕されれば少年院送りになるかもしれない。少年院というのは当時「ヤクザの予備校」といわれ、少年院を出ると、仲間が周り中に集まってきて、足を洗えなくなることを金森さんは知っていた。そうなったら、もうまともな生活はできなくなるだろうと思い、誰も追いかけてこれない土地=東京に逃げることを決意し、姉さんから5000円を借りてある晩、東京・上野行きの汽車に乗って、旭川を逃げ出した。「逃げ方も運が良いっていうのか、感性があるというのか(笑)、上野の駅っていうのはね、東北の玄関口って言われていて、あそこは東北から来た家出人が集まるんですよ。だから、ウロウロしてると警察に補導されて、故郷に連れ戻されちゃうんですね。ところが僕は、上野にいなかった。良くわからないままなぜか別の電車に乗り換えて横浜の「桜木町」についたんです(笑)。すごいよね、このカンの良さ!(笑)」と金森さん。北海道に連れ戻されていれば元のワル仲間に引込まれ、今も悪さをしているだろうと金森さんは述懐する。

 しかし、姉に貰った5000円は運賃で使い果たしてしまっている。食べるものをあさって、公園でうろうろしていたら、見るからに柄の悪い二人組が「お前腹減ってるだろう」と、声をかけてきた。彼らはヤクザのリクルート部隊で、ヤクザの手下になりそうな少年を物色していたのだ。「はい。三日前から、なにもたべていません」「じゃあ食わしてやるよ」ととある食堂に連れて行かれた。そこで、焼飯の大盛りと餃子を頼んだのだが、その後二人組は「組」に報告するためか、店を出て行った。 その瞬間に店のおかみさんが出てきて、「あなた、今すぐ逃げなさい。あの人達に関わり合ったら、酷いことになるわよ」と教えてくれて、しかも逃げて行く場所まで教えてくれた。大盛り焼飯には大いに未練があったが、カン良く逃げることができた。彼女はそんな風にして不良少年達を助けていたらしい。

 こうして、食堂のおばさんのつてで、横浜のパチンコ屋に就職できた。当時のパチンコ屋は住所がなくても、保証人が無くても働ける場所だった。朝早くから店の掃除、機械の手入れ、開店すれば接客、閉店後は出玉の集計、玉を磨く、釘の調整等々があって、朝から晩まで忙しく、遊びに行く暇もなかったし、焼飯のやくざに出会うと面倒だという思いもあった。また、母親に楽をさせてあげたい、姉に恩返しをしたい、いつかは自立したいという思いもあり、外には殆どでずに、朝から晩まで働いたから、お金はそこそこ貯まった。ところで当時パチンコ屋には人生で苦労した人達(ワルもいたが……)が集って、みんな住込みで働いていたので、様々な経験談を聞くことができた。そこで「ダンプの運転手は儲かる」と聞いて、パチンコ屋は三年勤めた後辞めて、大型車の運転免許をとり、砂利トラ店に転職した。(その時の自動車教習所の女性が今の奥さん)

 「いきなり大型ダンプに乗ったの。ボディがでかいから、曲がる時に電柱こすったり、ミラーをぶつけて落としたり。いろいろな事故を経験しました」「ダンプでゆっくり走りながら荷台の傾きをうまく調整して、砂利を道路に均等に平に降ろしていく。それができるようになったら一人前。工事現場には、頭から入ったらバックできない時がある。だからバックミラーを見ながら、バックで入っていく。乗用車は真ん中にミラーあって真後ろが見えるが、ダンプは砂利で見えない。両サイドのバックミラーだけで500メートルバックできるようになったら、一人前」と金森さん。「ま、いろいろやりましたが、残土降ろして、ダンプの荷台を上にあげたまま走って、鉄道の橋桁にぶつけちゃった。(笑)」 橋桁を壊し、ダンプは大破。結局砂利屋は四ヶ月でクビになった。

失敗をカテにして運送店を開業

 しかしこんな経験をしているから、次に勤めた運送店では「若いが腕が良い」と喜ばれ優遇された。それもそのはず、たいがいの事故はやっているから、ちょっとした修理は自分でやってしまうし、カンが良い。重宝がられて優遇された。一生懸命働き、節約してコツコツお金を貯めた。その後紆余曲折があるが、最後は中古トラック三台を買って運送店を開いた。ここが非凡で、金森さんが根っからの起業家だとわかる。トラックを買う時には東京中の中古車屋を回って、中古車屋の社長に直接掛け合って、安く売って貰ったという。この熱心さも凄い。金森運送は社長自身もドライバーになって稼いだから結構儲かった。しかし好事魔多し。最大顧客が倒産して、代金を払って貰えず、600万円の借金を背負って倒産した。そこで夜逃げも考えたが「幸い健康だ。働けるだけ働いて、借金は出来る限り返そう」と心に決めて、ダンプカーの雇われ運転手に戻った。

 ダンプ運転手として稼いだお金を、ガソリンスタンドや、整備工場など、借金のあるところに少しずつ返していったのだが、そんな努力をしていると、「金森君、君は偉いな。若いのに! 借金はもういいよ。出世払いでいいよ」と言ってくれる人も多かったらしい。日本は良い国だ!

 しかしそれでも借金は残る。お金を稼がなくてはならない。昼はダンプの運転で忙しいが、夜は仕事がないし、日曜日や雨の日もダンプの仕事はない。そこで、人手不足のプレス工場を見つけて、19時から23時の雨の日、非番の日にアルバイトをした。

 ある日 そのプレス工場で、集金を頼まれた。興味があったので、封筒の中の請求書をのぞき見てびっくり。「俺が僅かな日当で加工したものが、こんなに加工賃をもらっている! プレス屋はメチャメチャ儲けてるぞ!!」。実は盗み見た請求書は、関係の深い企業同士が、利益操作の関係で不当に高い工賃を設定して取引きしていたのだが、その時はそんなことは知らないから、早速「けっ飛ばし」と呼ばれる手動(というよりは足で体重をかけて、300kg程度の圧力でプレスするから足動です)プレス機械を発注し、「時の勢い」でプレス屋を開業した。1973年。31才の時だ。そそっかしいと言えばそそっかしいが、この行動の早さが、金森流なのだろう。

斬新な経営法でトップ企業に

 こうして金森製作所が生まれたが、「いやー。前のプレス屋に勤めていたときには、仕事なんていくらでもあると思っていましたが、いざ自分で始めて見ると仕事って本当に無いもんですね。しばらくは本当に苦労しました」と金森さん。

 経営法も変わっていた。たいした売上も立たないうちに1億円近い設備投資に踏み切ったのだ(写真3・4参照)。当時、大田区でもレーザー加工機を導入している工場はほとんどなかった。分不相応な設備投資だったが、自社に優秀な職人がいなかったため、自社の技術力の低さを最新の設備でカバーするしかなかった。この設備投資によって製品の質は飛躍的に上がり、生産効率も大幅に向上した。

写真3 工場A
写真4 工場B

 他社に無い設備があるので、やがて大手企業から「精度のうるさい仕事」が舞い込んでくるようになった。銀行や同業者から「無謀だ!!」といわれた設備投資だったが、結果オーライになった。
 また金森さんの営業方法も斬新だった。あるとき、何度納品しても「ここが悪い」「あそこが不具合だ」と、返品される。そこであんまり腹が立ったので、「実際に設計し、必要としている人に会わせろ」と掛け合い、根っこの発注者に「こんな値段じゃ、やってられねえよ」とタンカを切ったら、驚いたことに元の発注主が出した値段は、自分が貰う額の5倍だった。間に入った業者が4社もあって、それぞれ口銭を稼いでいたのだった。

 そんなこともあって、とにかく「大企業から直接受注するようにしたい」と思っていた。しかし大企業に入り込むのは容易ではない。
 試しに大企業の工場を訪ねたが、もちろん守衛さんが頑張って門を通してもらえない。そこで金森さんは、「製造二課の田中さんとアポイントがある」とデタラメを言った。「田中さん」だったら一人ぐらいいるだろうと思ったからだ。たまたまその「田中さん」が席を外していたので、「じゃあ中で待ってなさい」と製造二課に行くことが出来た。「田中さん」もびっくりしただろう。当たり前だが、結局注文はもらえなかったのだが、「変わったヤツだな」という印象が残ったらしく、一年ほど後、その田中さんが子会社に出向になった機会に、「元気の良い中小企業があったなあ」と思い出してくれて、そこと取引を始めてもらえた。

 またある時は、「タダでいいから仕事をやらせてください」と言って図面を貰って帰って、図面通りの物を作った。むろんこれに関しては代金は貰えなかったが「金森は熱心だし、技術は確かだ」と評価されて、後の受注に結びついた。
 この時期、現在の大田区大森南の本社工場用地百坪を購入。その1年後、地続きの上地八五坪を倍ほどの値段で手に入れた。「地続きの土地は女房を質に入れてでも買え」といわれているほどだから、金森社長はなんのためらいもなく購入した。ツイているといえば、ツイている。

断固として闘う

 「いやー。欺されたこともありますよ。詐欺事件で酷い目に遭いました」と金森さんは語る。数年前ある商社を通じてゲーム機(写真5)を作って欲しいという依頼が来た。とりあえず120台。うまくいけば、後々数万台の発注があるはずだという。納入先はアメリカ・ラスベガス。たしかに、ラスベガスでよく見る機械と同じものだ。「これは滅多にない良い話だ!!」
 試作して欲しいというので試作した。性能的にも、価格的にも満足するものができて、発注側も大満足。そこである日、元請けになっている某A社(年商数千億円)と、有名商社B社(年商数兆円)の重役が揃って金森製作所を訪問。「ひとつ宜しく頼みますよ」というわけだ。
 新しい有望分野だから喜んで作り始めた。ところが、殆ど全部ができあがって、「さあ納品」と言う時に、A社B社がそろって「そもそも発注した覚えがない」と、言い始めた。どうも、最終的納入先企業の経営がおかしくなって、キャンセルを食らったらしい。「だからといって、知らばっくれるやり方はないだろう!!」

写真5 自動牌九ゲーム機(詐欺にあった)

 ちょっと金森さんが弱いのは、契約書が無いのだ。台数や、価格、性能について打ち合わせたメモや、手紙、FAX類はたくさんあるのだが、「正式な契約書」が有るか無いかと言えば、無いのだ。 「正式な契約書を……」といってはいたのだが、いつもはぐらかされていた。中小企業にとってみれば、音に聞こえた有名なA社やB商社の重役が揃って来社して依頼しているわけだから、「俺が信用できないのか!!」と、話が壊れたら大変だからあまり強くは言えない。それに、今まで契約書がない仕事は山ほどこなしてきて、それでもトラブルなんかが起こったことなど無かったのだ。

 ところが、意外なことに、今回は「そもそも、頼んだ覚えがない」と言い出した。たぶん社内手続きもいい加減で、彼らも正式な社内稟議を通していなかったのだろう。相手が小企業でまともに喧嘩する体力はないだろうと、知らぬ存ぜぬと言い始めた。

 金森さんは困った。製造経費だけでも1億円以上かかっている。大企業にとってはたいしたことのない金額だろうが、中小企業にとっては生死に関わる金額だ。かって、納入先が倒産して不渡りをつかんだことはあるが、こんな形で騙されたことは一度もない。長い間悩んだ。小企業にとって「訴訟」は大変な負担だ。大企業なら裁判専門のスタッフも置いているだろうが、小企業はそうはいかない。面倒くさい。時間がとられる。

 莫大な弁護士費用がかかるし、敗訴すれば、かかった費用はまるまる持ち出しになる。そもそも「大企業相手に訴訟をしている」というだけで、敬遠する顧客もいる。
 しかし、知らばっくれるのは許せない。 法律に詳しい友人が「正義は大切だ。訴訟を起こすべきだ」と勧めてくれたので、「おそれながら……」とお役所に訴え出た。
 長い長い審理の末第一審は勝訴した。契約書がないだけで、これだけ明確にメモや手紙や、設計図が残っていれば当然の判断だ。ところが驚いたことに第二審では逆転敗訴した。「正式な契約書がないのだから、契約は無いのと同じ」という、馬鹿げた理由だった。書類が完全でなければ誰でも無罪にしてしまう、非常識な裁判官だったのだろう。

 悲憤慷慨して、上告しようと思ったのだが、多くの関係者に止められた。「高裁判決が最高裁でひっくり返る例はほとんどない」というのだ。しかしこれだけ証拠があるのに、契約書がないというだけで、そもそも注文自体が無かったことにするのは あまりにもおかしいと言うことで、あえて上告した。その結果最高裁で逆転勝訴の判決が出て、製造原価分は取り返した。だから、裁判に勝ったと言えば勝ったのだが、

1.製造経費分しか弁済されていない。

2.裁判費用は含まれていない。(数千万円の弁護士費用などは丸損になる)

3.3年以上、裁判に膨大な時間をとられ、資金繰りに苦労し、倒産の危機に瀕したことも考慮されない。

 ということだ。全く不当だ。「アメリカでは懲罰的賠償」というのが認められていて、悪質な者には損害額の何十倍もの賠償を命じることがある。大企業が中小企業を見くびって、契約を無視したアフターサービスを要求する、中小企業の特許を勝手に使う、不当な値引きを要求する、というような場合は懲罰的賠償をとって、2度とそのようなことを考えないようにすべきかも知れない。
 今回の場合、倒産のリスクすらあったわけだから、少なくとも実損額の最低三倍は弁済すべきだろう。

夢をつないで

 2017年に金森茂さんは社長を息子さんの金森忠明さんに譲り、自身は会長に退いた。しかし82才の今も元気一杯だ。現在の仕事はナノの精度を必要とする精密機器の試作品が多い。試作品だからすべて本邦初演。製品の一つ一つが芸術品のようなものだ。そこに金森社長・金森会長(写真6)の情熱が注ぎ込まれる。

写真6 金森茂会長と金森忠明社長

 東京大田区の名物企業、そこの社長や会長のアイデアと人脈から今後何が生まれるのか、大いに期待できる。

これまでのコラム

第1回 日本の町工場は人材育成工場
第2回 継ぐ者、継がれる者
第3回 会社を成長に導く社長の共通項とは
第4回 伸びる会社の社長は他人の能力を正しく評価し、活用できる
第5回 たった一人の板金工場から、革新的なアイディアと技術力で急成長を遂げ、その後、ものづくりベンチャーの援助に汗を流し続ける町工場の社長=浜野慶一さん
第6回 発明王 竹内宏さん
第7回 水馬鹿になって安心な水つくりに取り組む 桑原克己さん

筆者紹介 橋本 久義(はしもと ひさよし)

政策研究大学院大学 名誉教授

筆者紹介の詳細は、第1回をご参照ください