これまでに4,000を超える工場の現場を訪問してきた、中小企業のものづくりのスペシャリストによる連載コラムの第9回です。本連載では、日本の町工場のものづくりの現場探訪を分かりやすく解説します。
解説は、政策研究大学院大学 名誉教授 橋本 久義 氏です。
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(本コンテンツの著作権は、橋本 久義 様に帰属いたします。)
【第9回】夢を描き、進化させる 田中聡一さん
東大阪市は、大阪市の東に位置し、1967 年に布施、河内、板岡の3つの市が合併して誕生した人口約 50 万人の都市である。東京の大田区と並び、中小企業の集積地として知られている。ただし、大田区は従業員数2-5人程度の小さな工場が多いが、東大阪は従業員10-20人程度の規模の工場が多い。
このあたりは、江戸の昔には、有名な河内木綿を生み出す綿作地帯であったが、明治維新後、豊富な水流と水車を利用した伸線業(水車の力で、針金を引き延ばす)が発達し、針金、釘、ネジ、ざる、網などの針金を利用した産業が発展し、その後、阪神工業地帯の旺盛な需要を背景に、日用品、電気機器などを中心に多方面の工業が発展した。
現在、東大阪市にある従業員4人以上の製造業の事業所数 4,105 は大阪府内の約 14%、その就業者数 60,408 人は同約 10%を占めている。製造業の内訳をみると、金属製品と一般機械に集中し、この2分野が東大阪市内の事業所数の 45%、製造品出荷額等の 36%を占めている。
この集積には、国内トップシェアを占める製品を持つ企業が多いという特徴がある。例えば、工業用LPガス圧力調整器、工業用ハンマーなどの金属製品から、液晶ランプ用リード線などのIT関連部品、あるいは自転車用グリップなどという暮らしに身近な製品まで、必ずしも製品名や企業名が目立たないまでも多種多様な製品が作られている。
この地域では垂直的な企業系列関係があまり強くないため、比較的水平的な関係を築きやすいと言われている。こうしたことから、固有の技術力を持つ企業同士が協力し補完することによって、規模は小さくとも製品競争力の高い企業が多く存在している。
東大阪市当局は従来から中小企業を熱心に支援しており、97 年に「産業技術支援センター」を開設し、製品開発・研究開発などについての技術相談や指導を通じ、市内企業の技術高度化と製品の高付加価値化を支援している。
近畿工業の創業と成長

近畿工業の創業は1951年(写真1)。創業者の田中千松(せんまつ)氏は1905年、奈良生まれ。八人兄弟の末っ子で 大阪に奉公に出て働いていたが、まじめな働きぶりが評価され、取引先、知人・友人からも信用絶大だったらしい。その後、徴兵され南方で戦った。
終戦で帰還して、友人の推薦で、しばらく検事として働いていたらしい。人格者で、信用があったため、(お金もあったのだろう)大阪市内(弁天町)に2万坪ほどの土地を買って奈良県人会の人たちに農業等で自由に使わせたりもしたという。
その後、朝鮮動乱で景気が良くなって来た中、「まるい商店」を開いた。大阪港にあった大造船所(日立造船)のお膝元で、造船所が必要とする商品を納入する一方、加工屋、機械屋、組立屋、メッキ屋、塗装屋等々をぐるっと回って必要なコンポーネントを調達する、いわゆる「ブローカー」をやって成功していた。
商売が大好きで、仲間の面倒を見るのが好きで、酒は大好きだった。俗に北新地は金融が作った、松島(大阪の盛場の一つ)は鉄工所が作ったと言われているが、千松氏は松島では大有名人だったらしい。
ところが千松氏は、1964年の東京オリンピックの後、景気が極端に悪くなったのにいやけをさしてしまった。一般論として奈良県人はのんびりしているというのだが、江戸っ子と同じほど気の短い千松氏は、息子の田中昭次氏(1934年生)(現社長田中聡一氏のお父さん)に「会社はお前にまかせる。煮るなり焼くなり、好きにしたらええ」と放り投げた。
昭次氏は英語の先生になるつもりで、家業を継ぐつもりがなかった。というのも4つ年上の長男がいたからだ。しかし長男と父親が大喧嘩をして結局次男の昭次氏にバトンが渡り、1958年24歳の時に突然社長になった。なった後「経済のことはわからないので勉強をさせて欲しい」と関西学院大学の夜学に入って三年間経済を勉強したというから、真面目な性格であることが良くわかる。
当時は従業員十人ぐらいで自動車の修理用部品の生産が多かったが、1965年当時、近隣に立地した理髪店用椅子メーカーの主軸になる油圧シリンダー部品の製造を受注するようになって、経営が安定してきた。
昭次氏は文科系だが、新しい機械が大好きで、当時最新鋭のミヤノのタレット旋盤が発売されると、いち早く導入し、次にセンタレスの研削盤がでると、これもすぐに買った。千松氏が見にきて「これが庭付き一戸建て(と同じ値段)か!!」と嘆いたという。
昭次氏が機械を大切にしたことについてはエピソードがある。

昭次氏がミヤノのNC旋盤を近所に先駆けて導入した半年後に、工場の敷地内にあった独身寮が火事になった(写真2)。そのときに昭次氏は、火元の独身寮には目もくれず工場に走って、機械類にブルーシートをかけていたそうだ。つまり消防が来て放水したときに工場の機械類に水がかからないようにという配慮なのだ。これには聡一氏も幼心にびっくりし、また、なるほどと思ったという。
余談ではあるが、この時聡一氏は、三回消火器を持って火事の現場に飛び込んだ。その時「煙に巻かれて死ぬというのはこういうことかな」とつくづく思ったのは、煙が床すれすれまでおりてきて、床すれすれにしか空気がない。「私は床を這いつくばりながら消火器を運びました」と聡一氏。
昭次氏の対策は見事だったが、結局ミヤノのNC旋盤は修理が必要になったため、新規に一台購入した。ところがミヤノの機械は保険で補償されることになり、更に修理に出した機械も戻ってきて、結局小さな町工場に最新鋭のしかも高価な機械が三台並ぶということになって周辺の工場はびっくりされたという。
海外経験と衝撃の学び

経歴
1962年大阪生まれ。
大阪工業大学機械工学科卒業後
1年間海外遊学を経験。
帰国後近畿工業に入社。
1993年社長に就任。
現社長の田中聡一氏(写真3)は、大学卒業の時、このまま親父の工場に入ったら全く外の生活が経験できないことになると思い、昭次氏に「これから一生分の有給休暇を計算すると大体360日ほどになる。この有給休暇を全部先取りさせてもらえないか?」と頼んだ。すると意外なことに冗談が通じて、昭次氏が了承してくれたので、アメリカ=ワシントンDCのアメリカン・ユニバーシティーに1年間留学して、海外体験をした。
「留学中に、小さな町工場を訪問するチャンスがあって、見学させて貰ったら、トレイに次に作る製品の材料、部品、製品図面、使用する工具、NC加工テープ、加工のポイントを書いた紙が並べて置いてある。一つの仕事が終わったらそのトレイを持って行けば次の仕事の段取りがすべて終わるという形になっていてびっくりした。『なるほどこういうシステムであれば間違いも少ないし段取りにも時間がかからない。こんな小さな工場がそこまでやっているんだ』と、本当にびっくりした。私も昔から、なんとか職人の知恵を共通化したい、明文化したいと考えていたので、電気に打たれたように思いました。ウチよりも規模の小さな会社がそこまでやっているんだ。ということで本当に衝撃でした」と聡一氏。当時は ジャパン アズ ナンバーワン と、日本の技術力が高く評価されていた時代だが、アメリカの底力をその時知ったという。
顧客が喜んで注文してくれる工場へ
1993年に昭二氏が亡くなって聡一さんが継いだ。
実はその前後は大変な時期で、ある会社の仕事が売上の45%を占めていたのに、それを「内製化します」といわれてしまったのだ。当然パニックだった。
しかし、よく分析してみるとその製品の売上は多いが、利益にはほとんど寄与していないことがわかり、聡一氏は新しい展開をはかる決意をした。そして、猛然と新規顧客開拓に努力し、また「顧客が喜んで注文してくれる工場」へと変身する努力をした。
田中社長がかねてから考えていたのは、『駅前鉄工所』が実現できないだろうか?ということだった。(当時駅前留学というキャッチコピーが流行っていた)パートの主婦は保育園への送迎などで、なかなか他の従業員と勤務時間を合わせられない。だから、主婦がちょっと時間が空いたときに、駅前にある(便利な場所にある)近畿工業の工場に行って、2時間だけ働く。あるいは早朝に2時間働いて、子供を幼稚園に連れて行くのに2時間休んで、その後3時間働いて、賃金をもらうことができる。また、緊急に部品が必要になった企業が設計図を持ってくると、近畿工業のエキスパートが、製造の段取りをつけ、即座に加工に掛かり、夕方には出来上がっている。そんな工場があったらおもしろい!というわけだ。
それを実現するには、パートで働く人もケガをしない、汚れない現場にしておかなければいけない。現場で簡単な説明で作業が始められるように、仕事が標準化されていなければならない。一人で出来るように、作業台や、治具が工夫されてなくてはいけない。ポカヨケ(失敗できない)システムを整備しなくてはいけない。また、その人をどこに配置するか決めるためには、工場の稼働状況がリアルタイムで確認できないといけない……。工場側のエキスパートは工程を熟知していて、簡単な作業に分解できなくてはいけない。
聡一氏は工場へ行っては従業員に「そんなことができるような工場にしていこうじゃないか」と、夢を語った。簡単な話ではなかった。
「しかし、徐々に従業員の意識も変わり、4S(整理、整頓、清掃、清潔)や、仕事の標準化、データ取りの精度などがどんどん向上していったんです」と聡一氏。
さらに2000年になったとき、今後開拓すべき分野として、健康医療・食品・環境・ロボットという4つを挙げた。その結果、今では食品加工機械や水質改善装置、AGV(無人搬送装置)の部品などの分野も増えてきた。
夢を描き、進化させ、それを発信することの大切さを、体現してきた。
ハイテク村の鍛冶屋への挑戦と進化
同社は、今、理髪店や歯科医院のイスに使われている油圧シリンダー部品を筆頭に、環境・エネルギー部品、建機・重機部品、食品機械をはじめとする様々な業界向けの機械部品・装置の加工製作を行っている。(写真4)

その中で聡一氏が強調するのは「ハイテク村の鍛冶屋」となるための『人間力』すなわち、好奇心・可能性思考・会話力だという。
「たとえば、不良を出したとき、“この不良はどんな条件のときにできるのか”という可能性思考に転換し、それを追究し始めれば途端にわくわくしてくる。そうやって好奇心を持って取り組んだことは記憶に残るし、不良の条件がわかれば再発も防げる。そのとき重要なのは会話力。1人では解けない問題も、人と会話することで解決策が見えてくることはおおいにあるんです」と聡一氏。
こうした可能性思考は社員に少しずつ浸透。生産効率を上げる取り組みにおいても、そんなことは無理という固定概念を捨て、可能性を探ろう、と努力し、コロナ禍で低下した稼働時間が通常並みに回復したときも、時間外勤務なしで予定した生産量をクリアすることができたという。
2020年に同社は70周年を迎えた。その際、作成した次期長期計画書のタイトルは「Try to 80th! Dream of 100th!」。ここでもやはり聡一氏は、10年後の80周年にとどまらず、さらにその先の100周年を見据えて夢を描いている。

駅前鉄工所構想も、今は『駅前鉄工所セントラルキッチン』とバージョンアップして、会社全体のシステムを1カ所に集約(写真5)し効率化する計画を進行中。また、顧客の要望を形にするために最適な手順や加工方法など「工程を設計する」のが同社の強みでもある。「そのためにはいろんな加工を勉強しておく必要があるので、今までやったことのない素材の加工にもチャレンジしていきたい」と意欲を燃やしている。
聡一氏はいう。「弊社は、金属・非鉄金属部品の加工を通して、多様化するお客さまのニーズをにお応えするだけでなく、お客さまの次なる高度なご要求に合った最適な素材から、加工技術、組み立てまでをトータルにとらえた『提案型企業』を目標として、さらに信頼を積み重ねてまいります。
その基礎をなすのは、お客さまとのコミュニケーションを直接とらせていただく社員ひとり一人が、常にお客さまや社会、そして地球への貢献を第一に考え行動できること。この当たり前のことを当たり前に考え、実践できる社員の意識向上に取り組む『人間企業』を目指しています。
私が経営者の先輩から言われて、今も大切にしているのが『社長業で最も大切なことは夢を見ることじゃない。夢を見続けることだ』という言葉です。その意味は、今日描いた1年後の夢を明日も明後日も同じように見るのではなく、常にその日から1年後の夢へと進化させていかなくてはならない、ということだと思います」
夢を見るだけではない、それを着実に実現していく力こそが、近畿工業の魅力といえるだろう。
聡一氏は、日頃、周りの人から「なんでそんな発想が出るの?」と言われる毎に、自分では
当り前と感じることが、自身の成長環境によるものと思うことがあるとのことで、この点に関して聡一氏から寄せられた秘蔵エピソードを、最後に紹介する。
そもそも、私は2歳から近畿工業の敷地内の家で育ちました。その為、学校に上がる前の遊び場所は「鉄工所の現場」で、遊び相手は「職人さん」という環境でした。
また、小学校に上がると夏休みの宿題に「おうちのお手伝い」という課題があり、小学1年の時は、「機械加工で作られた小さな製品の数量を数えて袋に詰める」手伝いをし、小学5年のころには、機械加工作業を手伝うようになっていました。
機械の動きは子供の目に「かっこ良いもの」に映っていました。丸棒から長い切り屑や、焼けて赤くなった切り屑が飛び出した後には、いろんな形に変わった金属製品が現れる。
まるで魔法のように映っていたのでした。また、職人さん達は、四角い鉄棒をグラインダーで削って、いろんな形にしたかと思うと、その刃物で、多種の製品を作り出す手品師のように見えて、いつの間にか、憧れになっていました。
1962年生まれの同世代の人と比べると、多くの機械の変遷を目の当たりにしてきたのではないかと思う。
今から思うと、すごい「帝王学」だったのかもしれない。
振り返ってみると、学校の授業内容は全く記憶に残っていないのだが、教師や友人からかけられた多くの言葉が記憶に残り、それらの教えが今を作っているともいえる。
父からかけられた言葉で一番印象に残っているのは、次の二つの言葉です。
「中途半端に半玄(中途半端な玄人)に成るなら、素人の方がよい。分かりません、教えてください。は、マイナスの無い投資だ。」
「猫がネズミを噛んでもニュースにならない。ネズミが猫を噛むからニュースになる。ニュースとはそのようなモノと認識してから、理解しなさい。」
特に二つ目の言葉は、情報にあふれている現代社会にこそ役立っていると感じます。
高校時代の恩師からの言葉は、体育祭の練習をしている場面で、「駄馬は速くても駄馬。サラブレッドは遅くてもサラブレッド、駄馬は速くてもサラブレッドにはなれない。」
この時には、本当に素直に「私は駄馬なんだ。サラブレッドと同じ練習をしていても、速くなれない。目的は、サラブレッドより速くなれれば良いんだ。そのためには、駄馬にあった練習をしなければいけないんだ」と、理解しました。
経営の場面でも、いろんなハウツー本はあるが、自社にとって最適な方法を見つけること
が、大切なのだと理解しています。
社会人になってから、先輩経営者から、「社長にとって最も大切な仕事は、『夢を見続けること』だ。『夢』は見るんじゃない、見続けるんだ。一年後の夢を、元旦に見たとして、5日の仕事始めに、『1年後の夢は・・・』と、話すのは夢を見続けていることにはならない。1年後の夢は、5日になったら、5日から1年後の夢でなければならない。」
聞いた当初は何を言われているのか理解できませんでしたが、その後経営者になって、5年、10年と時間が経過するとともに、『夢を見続けること』の意味を少し理解できてきたと、感じます。
最後に、40歳を超えた頃に、同級生からかけられた言葉は、こんな会話でした。
「田中、偉くなったんだね!?」
「なんで?」
「こんなことができたら良いなって言って、でも、これは無理だろうなってわかっているんだろ?」
「いや?」
「俺も田中も、世界中の知識を知っているんじゃないだろ!夢や希望を描くときには、自分で、制約を作るな!成りたい、やりたい夢を徹底的に思い描いて、それから、どうやってできるか、どこでできるか、誰かできる人はいないかを探せばよい。その後、夢を修正していけばよいんだ。夢を描く最中に、自分で制限を作るな」
多くの人との出会い、言葉、経験を、あるがままに、受容することができたことは、今は亡き両親から与えられた「才能」と感謝します。
近畿工業株式会社 田中聡一
これまでのコラム
第1回 日本の町工場は人材育成工場
第2回 継ぐ者、継がれる者
第3回 会社を成長に導く社長の共通項とは
第4回 伸びる会社の社長は他人の能力を正しく評価し、活用できる
第5回 たった一人の板金工場から、革新的なアイディアと技術力で急成長を遂げ、その後、ものづくりベンチャーの援助に汗を流し続ける町工場の社長=浜野慶一さん
第6回 発明王 竹内宏さん
第7回 水馬鹿になって安心な水つくりに取り組む 桑原克己さん
第8回 大森界隈の名物会社 金森茂さん
筆者紹介 橋本 久義(はしもと ひさよし)
政策研究大学院大学 名誉教授